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本阿弥光悦


絵画もよくしたという光悦、だが現存する作品は一点もなし。
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祖先は室町後期の貴族的市民層。
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芸術万能の偉大なるディレッタント。
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俵屋宗達


生没不詳の天才画家。俵屋工房の棟梁から法橋にまで登り詰める。
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落款はないが「風 神雷神図」は宗達の最高傑作。
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「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(文化庁蔵)という紙幅三四センチ、全長二二、五六メートルに及ぶ長巻の巻子本がある。俵屋宗達が金銀泥絵で海原を渡る鶴の大 群を描き、その上に本阿弥光悦が三十六歌仙の和歌を散らしたものである。
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それはただ飛びかう鶴を描いたというものでなく、一貫したドラマになっており、まず砂州に降りたつ鶴の群れに始まり、大きく羽を広げ、砂州を蹴って舞い上 がるがやがて空高く列を組み、眼下に果てしない大海原が広がる。波上すれすれに低空を行くかと思うと突如いっせいにはばたいて大空高く駆け上ってゆく。
やがて鶴の群れは彼岸にたどりつき静かななぎさに憩うさまが実にみごとに描きわけられている。
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書は柿本人丸から始まるが、豪快であり、おおらかで、豊かで、しかも新鮮である。光悦五十歳代の書である。
かつてはこの和歌巻は書、下絵とも光悦の筆と考えられていたが、近年における宗達画研究の進展は、それらが光悦の絵ではなく、宗達によるものであることを 立証している。
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この「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」によって本阿弥光悦と俵屋宗達は広く世に盛名をはせ二人が琳派の始祖と目されるようになったのである。
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本阿弥光悦はこのように書では寛永の三筆にも数えられる名筆家であったが、絵もよくしたといわれている。
ただ画家としての光悦を考える場合、今日にその作品が一点さえ見いだされないという不思議もあるのだが。
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光悦の出自本阿弥家は、室町時代後期、戦国の群雄割拠するさなか、経済力をもつて畿内に覇を唱えた上層町衆の一族であったといわれる。
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光悦は永禄元(一五五八)年、駿河の国今川義元の館に刀剣の目利役として仕える本阿弥光二の嫡子として生れた。
光二はもと江州の武将多賀豊後守高忠の血を引く片岡治太夫の次男であったが、本阿弥家七代光心の娘妙秀を妻として同家の婿養子となり、いったん本阿弥家を 継いだが、その後光心の実子光刹に本家を譲り、分家している。
前記今川氏滅亡後は織田信長に仕え、天正年間、越前にあった前田利家から知行を受ける身となる。光悦もその跡目を継いで前田家から禄を得ている。
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前田家からの知行高は二代の光悦までは不明で、三代光瑳の代に二〇〇石、四代光舗が一〇〇石加増され三〇〇石を世襲して幕末に及んでいる。
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光悦は初名を次郎三郎、のちに清友ともいった。徳友斎と号し、元和元年鷹峯の地に移ってからは大虚庵を雅号としている。
没年は寛永十四(一六三七)年二月三日、享年は入十歳で、逆算すると生年は永禄元(一五五八)年になる。
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光悦の家職についてはほとんど伝えられていない。
前田藩の重臣富田景政にあてた光悦の書状によると、天正一二、三年頃、光悦が刀剣の役によつてしばしば加賀に下向していたという。
京都での住居は、洛中の小川通今出川上る西側の「本阿弥辻子」と呼ばれるあたりだったらしい。
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慶長七(一六〇二)年、福島正則の発願による厳島神社蔵『平家納経』修理の際、願文等の「表紙絵」「身返絵」を宗達が描いたが、それらを仲介したのが光悦 ではなかったかといわれている。
武将たちの間で名を知られている光悦が『平家納経』の修理を依頼され、配下の絵師や工人たちを斡旋したのであろう。光悦四十五歳の頃のことである。
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つづいて、角倉素庵が光悦や宗達の協力を得て『観世流謡本』や『方丈記』など、典雅な装訂の木活字本、いわゆる嵯峨本を刊行しはじめたのが慶長十年代のこ とである。
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また、宗達下絵の料紙に光悦が筆をとった色紙、和歌巻、謡本などが手掛けられるのもこの前後のことで、文化庁蔵「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」、畠山記念舘蔵 「四季草花下絵古今集和歌巻」、他に「鹿下絵古今集和歌巻」などが相次いで誕生している。
刀剣を扱う家職を持ちながらこれらの芸術品をものした光悦を偉大なディレツタントというのももっともなことであろう。
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元和元(一六一五)年、光悦は徳川家康より鷹峯の地を配領する。
王城よりわずかに二〇余町、紙屋川の渓谷をへだてて鷹峯の山々、清水の流れでる光悦村の風光はまことに美しく、『本阿弥行状記』によると「されば光悦心静 かなる夕暮に、ここかしこながめ歩みて思ひけるは、いかなる故にかくの如く大きなる野山を拝領申、何思ふ事もなく明し暮す事のかたじけなさ、今生一世の事 にはよもあらじと思ひけるが」とあることでも容易に光悦の心情を察することができる。
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鷹峯拝領の元和元年という年が光悦の生涯にとっても、またその芸術活動にとっても、大きな転機を意味するものであったことはいうまでもない。
元和元年といえば、光悦は五十人歳、すでに光瑳に家督を譲って、ひたすら書や作陶に遊び、茶の湯の風流にあけくれる隠遁生活を求めるようになっていた。
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光悦寺所蔵「鷹峯光悦村古地図」によると、南北通り筋左右に間口六〇間の光悦屋敷地を中心として、弟宗知、嗣子光瑳、光瑳の嫡子光甫をはじめとする本阿弥 一族、光琳の祖父に当る尾形宗柏、茶屋四郎次郎、蓮池常有などの親類縁者の屋敷が並んでいる。
他に紙師や光悦晩年の趣味生活を支えた職人までが屋敷地を与えられ、招致されていたことがわかる。
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同地は鷹峯光悦村と称され、五代光伝まで伝えられてきたが、廷宝七(一六七九)年幕府に還付され、六代光通は住居を江戸に移した。
光悦没後、その地に建てられた光悦寺は、一時荒廃したが、明治年間再興され、現在の京都市北区鷹峯の地に昔日のおもかげを残してたたずんでいる。
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俵屋宗達は、その事蹟を伝える記録類が乏しく、今日なおその生涯の大半は謎につつまれたままである。
その数少ない記録のひとつ「菅原氏松田本阿弥家図」によると宗達の妻が光悦の従妹であったと記されており、それが事実だとすれば宗達と光悦との間は姻戚関 係で結ばれており、「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」ほかのような合作が生まれる下地になっていたのかも知れない。
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宗達の活躍期は『平家納経』修理に携わった慶長七(一六〇二)年以前から「西行法師行状絵詞」を模写した寛永七(一六三〇)年以後にわたるほぼ三十余年間 に及んでいる。
その前半期はいわゆる絵屋、俵屋工房の棟梁としての活動期で、主として金銀泥によって色紙・和歌巻などの料紙下絵を描き、作品に宗達の名をあらわさない。
しかし元和(一六一五 ~ 二四)の中頃あたりから次第に工房絵師から脱却し、画家宗達として制作活動を主とするようになり、元和末年の京都養源院や醍醐寺無量寿院の障壁画制作を契 機として法橋位に叙せられ、晩年には法橋宗達の名によつて後水尾宮廷社会の愛顧をうけるようになった。
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宗達の生年は不詳、没後については、光悦が没した寛永十四(一六三七)年を前後して、かなり高齢をもって没したのだと考えられる。
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宗達の出自についても確かなことは明らかでないが、近世初期の京都唐織屋の名家蓮池家や分家の喜多川氏の出身とする説がある。
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喜多川家は屋号を俵屋といい、その家祖唐織屋蓮地平宕衛門尉秀明宗利の菩提寺項妙寺の俵屋の合葬墓碑の中に「宗達」の名が見いだされることが根拠にあげら れる。
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また『扶桑名公画譜』が宗達の姓を喜多川氏と記していることを結びつけ、宗達を喜多川氏の出身ではなかったかと考える説もあるが、確かとはいいがたい。
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俵屋工房の棟梁として宗達初期の作品で注目されるのは『平家納経』の「表紙絵」「見返し絵」である。
次いで慶長十年作の日付をもつ「草花木版下絵隆達節歌巻」と嵯峨本の下絵である。
光悦・宗達書画合作和歌巻「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」「四季草花下絵古今集和歌巻」「鹿下絵新古今集和歌巻」「四季草花下絵千載集和歌巻」は慶長末年から 元和初年にかけての作と推定されている。
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やがて俵屋の画工宗達にも独自の画家としての自覚がきざすようになり、画工宗速から画家宗達への転機が訪れる。
その代表作が京都養源院の襖絵と杉戸絵である。
今日養源院に残されている宗達画は、本堂松の間の「松図」襖絵一二面とユーモラスに躍動する唐獅子、白象などの杉戸絵八面だけである。
いずれも元和七(一六二一)年の作といわれる。
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次いで元和八年に醍醐寺無量寿院客殿に水墨障壁画「芦鴨図」を措いている。
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元和の後半期養源院および無量寿院での相次ぐ大障壁画制作は宗達の画家としての生涯にとって、最も昂掲した時代の所産であったがそれに次ぐ建仁寺蔵「風神 雷神図」屏風二曲一双は宗達画が到達しえた最高の境地のものとして位置づけられている。
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「風神雷神図」のもつ魅力は、枯れた美しさにあるのでなく、なお活力にあぶれた若さの魅力にある。
寛永七(一六三〇)年に描かれた「西行法師行状絵詞」、さらにそれに次ぐ「関屋澪標図」屏風、「舞楽図」屏風にうかがえる、一種の老成した静寂感はここに は認められない。
風神雷神の筋肉を描出する特徴ある太い輪郭線は、若く力強い養源院の杉戸絵の唐獅子や白象、襖絵の松や岩組みを思い起こさせずにおかない。
「風神雷神図」屏風こそ宗達が最後に到達した画境であるといっても過言ではないであろう。
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最後に光悦と宗達がよって立つ時代的背景に言及したい。
慶長五(一六〇〇)年、関ヶ原の決戦によって徳川家康の覇権が確立し、平和の到来と経済の驚栄は、市民社会に文字どおりの黄金時代を現出させた。
このような時代を背景に、琳派の源流、光悦・宗達芸術が誕生したこともおろそかにできない事実として明確にする必要がある。
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